第3準備書面を読んで 1 公益性の主張は本物か 

1.はじめに

 今回被控訴人(伊藤詩織さん)側が提出した第3準備書面を中心にいくつか考察をしていくにあたって、小林章さん(@Akira_5884)EvTRiMCgさん(@EvTRiMCg)で公開された資料を参照しました。両者とも立場は異なるとはいえ、裁判所で閲覧し、謄写されたことに敬意を表します。

 

2.伊藤詩織さんの一連の公表行為の経緯と意味について

 

 伊藤詩織さん第3準備書面(以下準備書面とする)の総論において、公表行為の経緯が詳しく記載されている。

準備書面で象徴的な表現として「真実と向き合うジャーナリストでいたいとする決意の下」、「あくまでも真に伝えたかったことは、性被害者が泣き寝入りせざるを得ない法律の問題点や、捜査、社会の在り方だった」、「性暴力の被害者が回復する道を示せるように、社会的・法的システムを同時に変えていかなければならない」等がある。

これらの主張の意図するところは伊藤さんは単なる個人間の争いを超えて、性被害者全体の利益のために公表行為をしたということだろう。端的に言うと公表行為に公益性がるという事ではないだろうか。

 

 さらに、特徴的な表現がある

『「全てを公表する」ことは必須であった。部分的に公表しても信用性がなく、迫真性が得られない、迫真性が得られてこそ、社会に声が届き広く議論される動きにつながる、部分的であっては「都合の良いことを書き都合の悪いことは隠している」などと性被害への理解は得られず、広く議論されることにつながる前につぶされかねない。

(9)全ては、性暴力被害を取り巻く環境を改善させる目的にでたものである。以上が、公表行為(1)、公表行為(2)、公表行為(3)及び(4)に至った経緯である。』

 

ここでの注目点は「信用性、迫真性」と「性暴力被害を取り巻く環境を改善させる目的」である。

 

 なお、伊藤詩織さんの著書では都合の悪いメールを隠すなど、全てを公表していると言いながら、全てを公表していない点で最初から信用性も、迫真性も欠けているものと解する。

 

3.各論における主張の変遷

 

 2で明らかになったように、伊藤さんの公表行為は個人間の争いではなく環境改善のため、また、信用性・迫真性をもたせるために実名公表を含めた全てを公表するという行為に及んだと主張している。

 

 ところが、準備書面を読み進んでいくと、著書の公表行為が名誉棄損にあたるかの問題において驚くべき主張を展開している。

 

 ノートパソコンでの撮影行為について

『本件では本件不法行為の被害者という一方当事者である。一般読者は、本件公表行為を読む前に「一方当事者」であることを念頭に読むのが通常であり、通常の読者であれば、対立関係にある一方当事者から一方的に発信されたものとして表現行為を受け取り、事実を正確に伝えるものではないかもしれないとの留保を念頭に読み進めるものである(東京地判平成21年7月28日判第2051号3頁)。

したがって、本件公表行為においても、一方当事者による事実を正確に伝えるものではないかもしれないとの留保があることを加味した上で、事実の適示なのか「疑い」なのかを考える必要がある。』(赤字筆者)

 

 そもそも総論で高らかに語った「真実と向き合うジャーナリスト」「性被害者の環境改善」「全てを公表する、信用性、迫真性」という主張は、すなわちジャーナリスト、ノンフィクション、さらには全てを公表することで読者等に対して「信用性・迫真性」を高めるものであった。

また、一性被害者という立場を超えて性被害者全体の立場改善をも踏まえて著書を出版したはずであり、公益性もその観点から主張されている。

 ところが、各論においては判例を引用しつつ「不法行為の被害者という一方当事者」「事実を正確に伝えるものではないかもしれない」と主張し、具体的な部分で「事実を摘示」したものではなく「疑いを摘示」したものにすぎないとハードルを下げ、さらに一般読者に対し「それが正確でないかもしれないと留保しつつ読み進めるのが通常である。」とまで主張をしている。

 

疑いにすぎないと読まれないように、そして、正確でないかもしれないと思われないように、実名、顔を出すなど、いわゆる全てを公表して信用性・迫真性を高めようとしたのではないか。

 

 また、自分自身を個人間の争いを超えた立場(公益性)から、「不法行為の被害者という一方当事者」いわゆる個人間の争いにレベルを下げるためにわざわざ引用した、東京地判平成21年7月28日の事件は「日教組全体集会拒否事件」と呼ばれるものである。

この事件は加害者側(プリンスホテル)と被害者側(日教組)という争いであり、「不法行為の被害者という一方当事者」とは日教組及び、その加入者ということになる。

はたして、この事件を引用することが適切なのだろうか。

 

 総論では性被害者全般の立場改善等のためと主張しながら、名誉棄損という各論の場面では一被害者にすぎないと主張する。立場を都合よく変える、カメレオンのようでは信用性も迫真性もないだけではなく、公益性もないのではなかろうか。